【終了】ULA seminar #5
2022 ULA seminar #05
─哲学とデザインという懐の深い分野ーあらゆる専門性を身に着けうる領域としてのー
日時:2022年7月13日(水) 12:15-13:30
場所:芸術資源研究センター+Meet
発表者:谷川嘉浩(プロダクトデザイン専攻 特任講師)
要旨:
本セミナーの要旨に代えて、専攻で制作中の冊子より抜粋した文章を頂きました。
※当日のレポートは制作中です。
「色々やりすぎじゃない?」と言われることが多い。実際、私の業績や略歴を見れば、「何の研究者なの?」と感じるはずだ。私は哲学に関する研究で博士の学位をとっているので、オフィシャルには哲学の研究者ということになるが、そもそも、この学位論文が哲学以外の分野、例えば心理学、社会学、政治学、メディア論等への参照の上に成り立っている。
何にでも手を伸ばすという知的横断性は、単なる心構えやお題目ではなく、ちゃんと形になっていると思う。研究はもちろん、多様な書籍の企画を並走させたり、企業からコンセプト作りや研修などを請け負ったり、制作指導をしたりしている。私にとって、これはとても楽しいことだ。
私には、特定のロールモデルはいない。強いていえば、みうらじゅんとか、星野源みたいな「わけのわからない人」のことを思い出し、支えにすることがある。
彼らは、一つやるだけでも大変な領域を軽々と横断して、時には「ない仕事」を作り、そこに色々な足跡を残していった。星野源にも、みうらじゅんにも、不思議な存在感と、飄々とした雰囲気がある。星野源なら、俳優、文筆、音楽という必要とされるスキルもレピュテーションも違う領域で活動し、すべてを相当な水準でやってのけている。でも、器用貧乏なんかではない。色々なことに同時に取り組んでいる人を見たとき「この人は何かが中途半端に違いない」と思うのは、邪推もいいとこだ。
実のところ「哲学」という言葉自体が、こういう「わけのわからなさ」を含んでいる。何か変なことをしていても、哲学以外の分野で哲学とは関係のない論文や活動をしていても、「まぁ哲学者のやることだからね」と周囲は許容してくれる。世間の人は「哲学」に魔術的で漠然とした期待を抱いており、そのことが「哲学」概念を懐の深いものにしている。私が「デザイン」に共感的にかかわることができるのは、この領域が、「哲学」と同じ懐の深さを持っているからだ。
ビジネスの文脈では、「デザイン経営」といって、イノベーションとコミュニケーションに寄与するし、マーケティング、体験やリサーチなどにも通暁する「スーパー何でも屋」としてのデザイナーが形成されている。新規事業開発に携わる人や経営者層、そしてUI/UX関係の仕事をする人との交流が多いせいか、このデザイン観に首肯するところがある。
そして同時に、絵画を中心にコンセプチュアル・アートが好きなので、「スペキュラティヴ・デザイン」と呼ばれる新たな視点と物語を提示するデザインの試みにも違和感なく接することができる。
こんな風に、野比のび太の期待に合わせて何でも出てくる「四次元ポケット」のように、私の中で「デザイン」という言葉は自由自在に動いていく。それをピンで留めなければならない理由はどこにもない。少なくとも私にはない。
デザインも、哲学も、そして私の仕事の仕方自体も、自由自在で融通無碍に、飄々ないし軽々と広がり、先鋭化し、充満し、伝染している。そしてそれは、何か特化したスキルや知識、専門的な視点や関心を持たないということではない。デザイン(あるいは哲学)は、あらゆる種類の専門性を身に着けうる領域の名前だからだ。
世の中の人にとって、「デザイナー」は、みうらじゅんや星野源のようなわけのわからない仕事をする人のことであり、その人を頼れば色々な悩みに付き合って、何かレスポンスを返し、いわく言いがたいことに形を与えてくれるような領域に立っている人のことだ。
そういう自由な場所に立って仕事をすることは、すごく楽しいことだし、そういう場所に学生たちを連れていき、そこから見える景色がどんなものなのかを伝えられるとすれば、教育者としての役割の一つを果たしたことになるのかもしれない。
もちろん「これだけがデザインのあり方だ」などと主張するつもりはない。色々なデザイン観が許容されて然るべきで、その自由さは奪われてはならない。だから私は、例の便利な関西弁を最後に付け加えてこの文章を終えたい。
まぁ、知らんけど。