【終了】ULAセミナー #7

芸大・美大という場の意味を考える

日時:2022年9月1日(木) 午後14時〜
場所:新研究棟共同講義室2+Google Meet
講師:喜始照宣(園田学園女子大学)

美大生の語りを分析した『芸術する人びとをつくる 美大生の社会学』(晃洋書房)を今年3月に上梓された教育社会学者の喜始照宣先生をお招きします。同書は美大生の語りから美大進学という選択や卒業後の進路の選択をするに至るプロセスを社会学的に分析したものです。当日は京芸の卒業生も参加して、「美大・芸大という場」について一緒に考えます。

美術の学生の皆さんにとっては、自分や周囲の経験が学術的に分析されるとどういう論じられるのか、という視点から聞いても面白いかもしれません。

美大生の社会学 書影

喜始照宣先生「芸大・美大という場の意味を考える」をうけて

濱口芽(大学院美術研究科油画専攻 修了)


今回のセミナーでは喜始先生の著書「芸術する人々をつくる 美大生の社会学」をもとに、日本の芸術教育の現状について、教育社会学の視点から美大・芸大をそこにいる人にとってどういう場であればいいかを考える、というものです。

教育社会学とは、教育に関わる社会事象を「社会学的な」手法によって理解しようとする学問分野です。「社会学」には、多くの人を対象にとったアンケートや社会統計などのデータを使って社会で起きていることを量的に捉える研究手法と、時間をかけてインタビューをしたり対象となっているコミュニティに入り込んで観察(参与観察)したりといった手法で対象について深く知ろうとする質的な手法があります。重要なのは何に困っているか、問いや概念を対象の側から受け取って研究を進めていくという学問であるという点です。

芸術家と呼ばれる人々やその生活はどういったものかという研究は今までにもあり、また高等教育に関する研究も多くありますが、喜始先生によると「端的に言えば,教育,特に高等教育に関わる研究では,芸術・美術系分野の存在が看過されており,芸術・文化生産に関わる研究では,芸術家の社会的生産過程における教育領域の役割に対する視点が欠けている」(著書の本文引用)とのことでした。喜始先生の研究では、芸術家と呼ばれる人々が、幼少期からどういった教育・訓練をうけ、どのように芸術家になっていくのかということを、芸術家になるまでの美大・芸大生への教育はどのようなものかという視点で分析されています。芸術大学で学んだ自分を振り返ってみても、大学を「教育」という側面から振り返る、大学での美術の教育とはどうだったかを自分なりに意味づけることは少なかったように思います。

喜始先生は著書に関して「登場する芸大・美大生をありえたかもしれない自分の姿としてみて欲しい、自分の経験や考え方の差異を探って欲しい」芸大・美大の学生・卒業生には「社会の中での美大や美大生のポジション、大学の中での自分のポジションはどのようにあるか。自分が当たり前に思っている現在はどのような軌跡・どのような人や環境から良くも悪くも影響を受けてきたか」を考えるきっかけにしてほしいと言っておられました。実際に芸大卒業生として、著書内のインタビュー内容への共感や在学当時の雰囲気を思い出したり、また一般大学や喜始先生の見解を芸大と比較して驚くことがあったり、改めて芸大内の環境はある種特殊な場であったということを認識しました。

ここで著書の簡単な内容を紹介しておくと「現代日本において、美術を学ぶ学生は、専門教育を通じてどのように作家となるのか」を大問とし、そこから

「美術系大学への進路選択を方向付けるディスポジション(傾向、気質)は、どのような 社会的条件のもと形成されるのか」

「準備教育機関である美術系予備校・画塾での経験は,学生が美術系大学という界に参入する際に,どのような影響を与えるのか」

「美術系大学という界の特性は、学生の作家としてのディスポジション形成に、どのようなかたちで影響を与えるのか」

という3つの問いをたて、それらに対して美大・芸大生、卒業生にそれまでのキャリアについてインタビューや質問用紙調査を行ったりと、具体的な学生の声を記述し様々な数値を出して、詳細な分析・研究結果が記されています。

私がセミナー内で興味深いと思ったことをまとめたものが以下です。

①芸大は「制作する為の時間と場所を確保する場ということが特徴と言えるのではないか」「先生や生徒などから多様な考え、価値観を共有できる場」であるが一般大(特に文学部や社会学系)は「授業を受ける場所、サークル活動などをする場」との答えが返ってくるなど、大学という場に対する捉え方が、学ぶ場所/受ける場所というふうに異なること。

②どういう環境の中にいるかで思考が変わってくること。

例)美大生:絵を描く(アウトプット)→観察(思考)→改善(よりよく作り直す) 、工学部生:考える(思考)→計画する→つくる(アウトプット)

というように、物事に対するプロセスが異なること。

③芸術大学にはそもそも指導・批評空間として限界があるのでは?ということ。特に現代日本では自己表現について語り、教員や生徒同士で批評や議論をするというよりも、個人の自由な制作活動の継続を推奨し、そこから、制作状況の報告→教員からの一方的なコメントで終わってしまうということもある。そもそも議論になることが必要だと思っていない教員もおり、生徒も指摘された部分への応答を次の作品で見せる、という方法が採られることもある。

④芸術家という仕事や界隈に入っていく人に、どうやってその道を進めばいいかという研究は少なく、芸術家は教育を重視しないということ。美大・芸大に教育はなく、評価というのもできないということ。美術は感覚的で、評価する者される者という間に権力勾配がある。人文系はロジカルな方面から評価する側に対抗することができる。

⑤多様な価値観があるということが言われる一方、美大・芸大の中での価値基準の中でしか思考できないとその他の価値基準から遠ざかってしまう、多様性があるとは言えないということ。

⑥教員間での世代感覚、芸術を受け入れるその時の社会のあり方、時代背景、世の中に合わせて表現を変えていったり、発表方法・種類が変わり、「作る」ことに対する考え方に幅があるということ。就職=制作の中止というレッテルを貼られていたが、そもそも芸術家になる為に美大・芸大に入ってくる学生だけではないこと。

⑦奨学金の有無で将来や制作スタイルへの影響があるということ。また、これらは必ずしも学生側の多様なあり方として教員側に受け止められていないということ。

③に関して、到達目標にどの程度達しているかという点で見れば作品に評価はつけられるかもしれないが、教員は学生がたどるプロセスも見ていて、教員自身の経験をもとにそのプロセスについても評価としているという意見も出ました。②のプロセス例も踏まえると、自分が目指す表現にどうアプローチしていったかという面に対して評価するということはできそうです。

⑤は、京都市の中心部から離れて周囲にあまり何もない沓掛キャンパスの時代に京芸学生だった身からすると、限られた空間に芸術をする人が集まり、価値観の共有のしやすい環境でで楽に息ができるような気持ちになる一方、自分から出ていこうとしない限りその中に閉じこもることもできるので、多様性を認めてはいるといいつつ、実際には多様性があるとは言えないという意見もその通りだと思いました。

⑥や⑦に関しては、社会の流れに合わせて芸大も少しずつ変わってきたと感じます。例えば芸術界隈でのハラスメント問題が表に出てくるようになったこと、勉強になるからと学生に無報酬で教員の作品制作の手伝いをさせるといったことが減ってきたこと、就職活動はせず作家活動をすることが当たり前、就職=悪だと考えられてきましたが、その人なりの生活とそれに伴って表現活動のやり方があるという認識が広がってきたことなど。、また、作品や作者の態度が他者に与える影響や倫理の面から表現活動を考える授業、大学卒業後の身の建て方や芸術業界でのお金の動き・制度に関して実質的な授業を望む声もきかれます。

いかに芸術界隈がある種の独自性を持っているかを自覚し、ひとつの教育システムで教えきることができるものでは無く、それに当てはまらない分野だからこそ、その時その時代に、学生にあった教育方法を時には学生と共に探っていくこと。変わっていく時代や価値観に対応し、個々人が表現活動との距離感を掴み生きていくことができるようにする為の教えが、少しずつ形作られていけばと思います。